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<ノベル>
夜の帳に雪が降る。
このまますべて覆い隠してくれれば良い。何もかも包んで消し去ってくれれば良い。
なれどそうはゆかぬ。
主に背くは、死しても雪げぬ大罪なれば。
だから一馬は走る。
深更の闇も妨げにはならぬ。積もった雪は闇の中でも奇妙に薄明るく、皮肉な灯明となって導いてくれる。
雪が降る。音も立てずに雪が降る。
だから頬が濡れている。涙などではない。顔に当たった雪が体温で溶けて流れただけだ。
短期間で標的の信頼を得ることに成功した。標的は逃亡を勧める一馬の弁を信じ、一馬が指示した通りにこの橋を渡って隣国へと向かう筈だ。
橋のたもとに身を潜め、やがて。
人目を忍ぶような足音が近付く。
標的が近付く。一馬に好意的な笑みを向けてくれたあの父娘が。
「南部さ――」
娘の声を遮るように、一閃。しぶく朱が、黒と白に沈む景色を禍々しく染め上げる。
悲鳴も上げさせず、認識する暇すら与えず、瞬きのうちに斬り伏せるつもりだった。
ああ、それでも、咄嗟に声を上げた娘のほうだけは一馬と気付いたに違いない。
父に覆いかぶさるように倒れた彼女の顔は、安堵と信頼の微笑を留めているではないか。
一馬の正体を知らぬまま、あどけない笑みを残して事切れているではないか。
だから、きっと雪なのだ。
彼女の頬を濡らすのも、一馬の顎を伝って滴り落ちるのも、顔に落ちて溶けた雪なのだ。
正座した一馬は微動だにせず、睨み殺す気なのかと思うほどの眼光で『てれび』を凝視している。
(やはり斬らねばならぬのか……)
膝の上に置いた拳がぎちりと握り締められ、震えた。
四角い『てれび』には四角い『でっき』とやらが備え付けられている。どんなからくりがあるのか知らないが、『でっき』に挿入された『でーぶいでー』という円盤(七色にてらてらと光る面妖な代物だ)が『てれび』にこの『えいが』という映像を映し出しているらしい。
「南部さま、南部さま」
不意に玄関から聞こえてきた控え目な声にぎくりとする。
「南部さま、ゆきにございます。南部さま」
「これ、あまり大きな声を出すでない。南部殿は出かけておるのやも知れぬ」
娘を諌めるように初老の男の声が重なった。一瞬の逡巡の後、一馬は「今参る」と答えて立ち上がる。
予想通り、表に立っていたのは父娘だった。質素ながらも品の良い着物を着込んで髪を結い上げた娘は、毬栗を盛った小さなかごを抱えている。
「『きねま山』という場所に栗を拾いに行って参りましたの。たくさん拾いましたので、よろしければ」
娘のほんのりとした微笑は『えいが』の中の死に顔そのままで、一馬は弾かれるように目を逸らした。
「ご迷惑になるからよせと言ったのだが……どうしても南部殿におすそ分けをと聞かぬもので」
好意的な苦笑いとともに会釈するのは娘の父親だ。頭に白いものが目立ちながらも、小袖に肩衣、袴というきちんとした身なりはしゃんとした風情を感じさせる。
「……かたじけない。頂戴いたす」
一馬はそっと微笑み、白い手から栗のかごを受け取った。
「だが、あいにくこれから所用がござる。口に入れるのは帰ってからにいたそう」
「お出かけになるのですか?」
「左様。探したい者がおりまする」
「ならば儂らにも協力させてくれ、この『ぎんまくし』とやらはだいぶ広かろう。南部殿には父娘揃って世話になっておるからな」
「ご厚意はかたじけのう存じますが、その儀には及びませぬ。わたくしごとゆえ……」
もう一度微笑み、一馬は申し出をやんわりと断った。
『よくやった、南部。約束通りこの鷹取(たかとり)直属の家臣として迎えてやろうぞ』
『……ありがたき幸せ』
茶の間の『てれび』は、相変わらず『えいが』の続きを低く流している。
「……むう」
清本橋三は強面をさらに険しくして腕を組んでいた。
突然の来客を前に彼は途方に暮れていた。傍目には決してそう見えずとも、困り果てていたのだ。
……この客は何をどう勘違いしたのだろうか。
(あにきあにき。センセー、怖くないっすか?)
(顔がこええのはいつものことだけどよ。にしても、ずいぶんおっかねえ顔してらっしゃるな)
むっつりと苦虫を噛み潰す用心棒を襖の影から見守りながら、雪村一家の若頭代理補佐とその舎弟がひそひそと囁き合っている。
(どうしたんすかね?)
(分からん。ここからじゃ何を話してるか聞こえねえな)
(あのお客、サムライっすよね? 武士っすよね武士?)
(そんなの見りゃ分かるだろうが)
(よく見えないっす、おいらも見たいっす。あにき、もうちょっとそっちに行ってくださいよぉ)
(あっ、てめ、この、押すんじゃねえよ!)
襖の向こうでこそこそごそごそしている二人にちらりと苦い視線を送り、清本は客人に向き直った。
「不躾で申し訳ない。清本殿はこの街では名の通った使い手と聞き及び、馳せ参じた次第」
南部一馬と名乗った客人は胡坐をかいた清本の前で律儀に正座している。武士の正装に精悍な顔立ち、きりりと結った髷、そして伸びた背筋は若さと意志の強さを感じさせた。
「名が通っているかどうかは知らんが、確かに俺には多少の腕はある」
しかし、と清本は腕を組んだまま更に眉を寄せた。「俺は用心棒だ。殺し屋なら他を当たれ」
人を斬ってもらえぬか。
清本の元をふらりと訪れた一馬はそう言って頭を下げたのだ。
(どこでどんな噂を聞いて来たものやら)
この人相と悪役という立ち位置が実体化したばかりの一馬に誤解を与えたのやも知れぬ。しかし人斬りの殺し屋と間違えられてはたまらない。
「誰かを守るために剣をふるうのが用心棒でござろう」
「……どういう意味だ?」
「ある父娘を守るために人を斬っていただきとうござる」
若者特有の性急さなのだろうか。一馬の話はあまりに一方的かつ突飛で、飛躍的だ。
清本はがりがりと頭を掻き、嘆息混じりに舌打ちする。
「済まんが、まったく話が見えん。俺にも分かるように説明してくれ」
一馬は軽く顎を引き、唇を引き結んで居住いを正した。
「拙者は旗本・南部昌親(まさちか)が末男。旗本といっても我が南部は弱小でござるが……」
ぽつぽつと語られる事情に清本の眦が厳しくなり、眉間の皺が険しい音を立てて深くなる。
「――惚れたおなごには生きてほしいのだ」
真一文字に結んだ口許をかすかに歪め、一馬は声を震わせる。
「なれど侍にとって主の命(めい)は絶対。不忠者の汚名を得るは死にもまさる苦痛で、恥辱」
「若いな、おまえさん。ここは銀幕市だ。おまえさんの主は此処には――」
「たとえ“えいがの中の作り事”だとしても」
清本の言葉を遮るように発せられた声は、低く、強く、あまりに悲痛で。
「命令は命令。使命は使命にござる」
一馬は身じろぎすらしなかった。凛と背筋を伸ばし、膝に乗せた拳を握り締めながら、微動だにせずに涙を流していた。
「使命ならばこの身を投げ打ってでも果たさねばならぬ。それがもののふの道なれば」
瞬きすら忘れて涙を流す若武者の前で、齢を重ねた浪人は腕組みを解かずに沈黙を保つ。
滑稽だと断ずるのはたやすい。だが、清本の胸の奥でちりりと焦げる何かがそれをさせないのだ。
覚えがあるからなのか。不器用で頑なな侍の中に、かつての己を見たせいだとでもいうのか。
「……悪いが、断る」
やがて用心棒が押し出した答えに若い侍の目が硬くこわばった。
「何度も言うが、俺は用心棒だ。おまえさんの言うように人を守るために剣をふるうのがつとめ」
「ならば――」
「要はその父娘が助かれば良いのだろう」
外しておいた刀を畳の上に立て、清本は腰を上げた。「俺が父娘の元へ用心棒として赴き、刺客から二人を守ろう。――それで良いな」
その一言にすべての思いを込めた。多くを語らずに斜めに見下ろせば、何事か言いかけた一馬ははっとしたように口をつぐむ。
そして――真っ直ぐに清本を見上げ、唇をきつく結んで首肯した。
表に出た一馬は深々と頭を下げてから立ち去った。
「先生。何の用だったんで?」
「俺に人を斬ってくれと言う」
「はい?」
「同じ映画から一緒に実体化した父娘が刺客に狙われているとかでな。俺にその刺客を斬ってくれと言うのよ」
「かーっこいいじゃないっすか!」
「へへっ。やっぱ先生の腕が見込まれたってことですかね?」
にわかに盛り上がる若頭代理補佐とその舎弟の脇で清本は黙っている。遠ざかって行く若侍の背を見送りながら、何事かを思案するように腕を組んでいるだけだ。
「で、引き受けたんですかい?」
「断った。俺は人斬りではない」
冬将軍の先触れであろうか、渇いた風がひょうと吹き付け、清本は軽く首をすぼめる。
「代わりにその父娘の護衛に向かう。何日か留守にするかも知れん」
「父娘の用心棒になるってことっすね。あれ? だけどそれ、結局は刺客と斬り結ぶことになるんじゃ……」
刺客を斬るのも父娘の護衛も同じ結果になるのではないかと首をかしげる舎弟に、清本は浅く笑んでみせるだけだ。
「それより、頼みたいことがある。あの侍と父娘の『えいが』を観ておきたい。えいがの題までは聞かなんだが……あの武士の名は南部一馬、父娘のほうは平松源之進におゆきだそうだ」
「そんだけ手がかりがありゃあ充分です。待っててください、すぐにググりまさぁ」
若頭代理補佐はぱちんと指を鳴らして家の中に駆け戻って行く。その場に残された清本と舎弟も玄関に上がって履物を脱いだ。
「『ぐぐる』とは何のことだ?」
「インターネットで調べるっていう意味っす。検索のことっすね」
「むう。『いんたあねっと』には『えいが』まで入っておるのか」
「いやあのセンセー。映画が“入ってる”わけじゃないんすけど……」
「む、そうなのか。いやしかし……からくりは分からんが、大したものよな」
パソコンなどには縁のない清本だが、『いんたあねっと』がたいそう便利なものであるらしいことは察しがついている。
それに、あの四角くて狭い『いんたあねっと』――時代劇出身のムービースターにはパソコンとインターネットの区別がついていない――の中には市(いち)のようなものまで組み込まれているらしい。市に並んだ様々な品のうちから好きな物を選んで『くりっく』すると、それが数日後に自宅に届けられるのだ。
清本もその恩恵にあずかったことがある。以前ネットショップから取り寄せてもらったスイーツの味を思い出すと思わずぼそりと呟きが漏れた。
「……またあの『べるぎい』とやらの国の『ちよこれいと』が食べたいものだ」
「はい? 何っすか?」
「い、いや。何でもない」
清本は慌てて咳払いし、緩みかかった顔を殊更に引き締めた。
頬が緩んでいた理由はわざわざ記すまでもない。
ぱ、ちん。
玩具のような松の枝がほとりと落ちる。ひんやりとした感触を確かめるように、平松源之進は掌の中でかちゃかちゃと植木ばさみを鳴らす。
ぱ、ちん。
また一房、くすんだ緑の針葉が落ちる。
「平松殿。あまり切るのも風情がないのではないか?」
背後からのんびりともたらされた声に源之進は苦笑いした。
「慣れないものにござりますな。この家の主人から譲り受けたのですが……存外難しいもので」
不格好に枝を切り落とされ、貧相な姿になった盆栽に源之進はもう一度苦笑を漏らした。父娘が住まうこの小さな借家の大家が記念にとくれた品だ。なかなか家の借り手がつかずに取り壊そうと思っていたところに現れたのが源之進父娘だったとかで、大家はたいそう喜んでいた。
「清本先生は盆栽にお詳しいので? ひとつご指南願えませぬか」
「俺にあるのは少しばかりの剣の心得に過ぎぬ。この手は盆栽を愛でるには不向きよ」
日当たりの良い縁側に手枕で寝そべり、あくびを噛み殺しながら答えるのは清本橋三という名の用心棒である。迫力のある外見には似合わぬ風情に源之進は微笑を返した。
「所で、先生。儂と娘を狙っているという刺客には何か動きは?」
「さて。今のところは静かなものだが」
長身痩躯の清本はひとつあくびをしてゆったりと体を起こした。「すぐに仕掛けて来るとは思わんよ」
「やれやれ。きな臭い話にござるな」
この『ぎんまくし』にはもはや殿も鷹取殿もいないというのに。
源之進はひとつ肩をすくめ、清本の隣に腰を下ろした。
映画の中で源之進父娘の命を狙った刺客が実体化している。彼奴から源之進たちを守ってほしい。南部一馬にそう頼まれたと言ってこの浪人がやって来たのはつい二日前のことだ。
「鷹取とは、平松殿の後の家老だったか」
「おや、よくご存じで。もしや先生は『えいが』をご覧に?」
「うむ。居候先の友人に調べてもらってな」
「さようで。実は儂や娘はその『えいが』を観ておりませなんだ」
ほう、と清本は眉を上げた。
「決して観ぬようにと南部殿よりきつく言われておりますれば。南部殿がそこまで申されるからには何か理由があるのでござろうが……やはり気になるものですな。儂や娘のことだけではござらぬ。藩や殿はあの後どうなったのであろうかと」
「家老として藩政の中枢にあった身ならばさぞ気がかりであろう」
小春日和、といったところだろう。凪いだ空は青く、高い。優しく降り注ぐ太陽の光がじんわりと体を温めてくれる。ふと目をやると、庭の隅に小さなたんぽぽがちょこんと座り込んでいた。
「家老であったのは昔のこと。今は後進に道を譲り、この通り隠居の身にござるよ」
「鷹取とやらに家老の地位を“譲った”と申されるか。俺が観た『えいが』ではちと違う筋書きだったようだが」
「いやはや、これはこれは」
苦笑を浮かべ、薄くなった頭をぼりぼりと掻く源之進の姿はただの温厚な壮年男性でしかない。
「確かに、鷹取殿に追い落とされたというのが正しいのでござろうな。争うつもりはありませなんだが、鷹取殿にとっては儂のような頭の固い人間は煙たかったのでござろう」
「だが、それだけでは鷹取の放った刺客に狙われる理由にはなるまい。平松殿はいわば引退した身。こう申すのも何だが、失脚した前家老など現家老にとって脅威ではなかろうて」
片目を軽く眇めてみせ、さりげなく真相に水を向ける。「『えいが』でその辺りの事情も多少は心得ている。が、平松殿はどう考えているのだ?」
新家老・鷹取篤宗(あつむね)が、藩の秘密を握る元家老・平松源之進とその娘おゆきを葬ろうと刺客を放つ。それが映画の筋書きだ。
「質の悪い貨幣の鋳造など、どこの藩でもしていることにござるよ」
源之進は諦観の微笑を浮かべて軽くかぶりを振ってみせた。「なれど我が殿は潔癖な御仁ゆえ」
逼迫した藩の財政を救うために貨幣の質を落とすことを提案したのが鷹取だ。潔癖な藩主はそれを嫌い、当時家老であった源之進も足並みを揃えて反対した。だが鷹取は極秘裏に劣悪貨幣の鋳造を推し進め、財政において一定の成果を上げる。その成功を声高に誇示した鷹取は源之進の追放を図り、劣悪な貨幣が作られていることを知らぬ藩主も鷹取を任用した。
だが、源之進とおゆきはひょんなことからその一件を知ってしまい、鷹取に命を狙われることになる。それを源之進父娘に知らせ、隣国への亡命を勧めたのが南部一馬だ。
「潔癖といえば聞こえは良いが……ちと甘いのではないか。一国の政を担う上で多少あくどい手を使うのはやむを得ん。その覚悟がなければ藩主の座になどつくべきではなかろうに」
「確かに殿は融通の利かぬ御仁。なれど、劣悪貨幣の流通は長期的には必ず民草の生活を圧迫することになりますれば」
民のことを何よりも大事に考えるは一国一城の主として当然のこと。穏やかにそう言われて、清本は口をつぐむ。
「『えいが』の中で刺客に狙われていると警告してくれたのが南部殿にござった」
「その南部とやらもこの街に実体化しているそうだな」
「さようにござる。『じったいか』したばかりで途方に暮れていた儂ら父娘を何くれとなく気遣ってくれ申した。『えいが』の序盤からじったいかした儂らは南部殿とあまり付き合いはありませなんだが、この街に来てからの縁で親しく……」
のどかだ。静かに降り注ぐ日差しと、ふわりと凪いだ風。小さな庭の片隅で控え目に咲いたたんぽぽがかすかに揺れている。
「此処には鷹取殿もおりませぬ。娘と南部殿と三人で平和に暮らせれば良いと思っておりましたが、よもや鷹取殿の刺客まで実体化していようとは。ほんにうまくいかぬものにござりますなあ」
殊更に晴れやかな声音を作りながらも、源之進はほんの少し哀しげに眉尻を下げた。曖昧に相槌を打った清本はしばし思案顔で腕を組む。
――その時、はさみを入れてもいないのにほとりと音を立てて盆栽の枝が落ちた。
「おやおや……何やら縁起が悪うござるな。どうしたことか」
「平松殿」
立ち上がって枝を拾った源之進の背中に低く声をかける。「南部とやらは――」
「先生、父上。昼餉の準備が整いました」
だが、鈴を転がすような声が二人を呼ばわり、清本は言葉の続きを呑み込んだ。
「今日は栗飯にございます。冷めないうちに、こちらへ」
「おお、今行く」
愛娘に答えて振り返った源之進はふと清本に目をやった。「先生、何かおっしゃいましたか? 南部殿がどうとか聞こえたような」
「いや、何でもない。それより栗飯だ」
清本は前身頃に腕を差し込み、いそいそと茶の間に入って行った。
昔懐かしい木目色のちゃぶ台には質素な献立が並んでいる。ほっくりとした栗ごはんに、ほうれん草のお浸し、薬味を添えられた小さな湯豆腐。小鉢の中身はシメジとエノキのしぐれ煮、味噌汁の具は油揚げと小松菜だ。
「慣れないもので、ずいぶん手間取ってしまいました。これでも初めに比べればだいぶ慣れたのですが……」
「いや、大したものだ。元家老の娘御では手ずから炊事をする機会などなかっただろうに」
まんざら世辞でもなく清本が言うと、栗飯をよそっていたおゆきははにかんだように微笑んだ。
実際、悪くない味であった。汁椀に口をつければ味噌と揚げの風味、そして小松菜の香りが心地良く鼻から抜けていく。米の中にごろごろと混じる栗の甘味を引き立てるかすかな塩味も心憎い。さっぱりとしたお浸しと湯豆腐で口直しをし、醤油とみりんで程よい塩梅に煮つけられたキノコを口に運ぶ。うまい、と呟くと父娘は嬉しそうに笑った。
「お口に合ったようで安心いたしました。先日、きねま山で拾って来た栗ですの」
「ほう。栗飯にするほど拾えるものなのか」
「栗ならばまだまだ残っておりまする。大量に拾って参りましたゆえに」
清本の隣で源之進はわざとげんなりした表情を作ってみせる。「南部殿におすそ分けをするのだと娘が張りきりましてな。栗を拾いたいのか、南部殿に会う口実が欲しいだけなのか……まったく、年頃の娘の心は男親には分からぬものにござるなぁ」
ひょうきんなしぐさで後頭部を掻きながら笑えば、おゆきが慌てて「父上、何を」と睨みつける。仲の良い父と娘に軽く目を細めつつ清本は味噌汁をすすった。
「ということは、南部とやらにもこの栗を?」
「ええ。すぐにお届けに上がりました」
召し上がってくださったかしら、と独りごちるように呟いたおゆきの顔にふと翳りが差す。
「南部さま……今頃、どうなさっているのでしょうか」
栗飯をかきこむ清本の手がぴたりと止まった。
「先生がこの家にお越しになる直前から、お姿が見えなくなりました。まさか刺客の件と関係があるのでは」
「よさぬか」
考え過ぎだと源之進がたしなめる。しかしおゆきは色白の面(おもて)に不安の色をいっぱいに広げて縋るように目を上げるのだ。
「南部さまは刺客のことをたいそう気にしておられました。まさかお一人で刺客を倒しに行かれたのでは」
「よせと言っておろうに。案ずる気持ちは分かるが、むやみやたらと勘繰るでない」
「……心配には及ばん」
黙っていた清本が初めて口を開く。父娘の目が一斉に浪人へと向けられた。
「南部とやらはそのうちここに来る。絶対にだ」
「先生、どうして――」
「いつとは断言できんが」
おゆきの抗いに言葉をかぶせ、清本は箸を置く。「いずれ必ず来る」
そして顎を引いておゆきを、源之進を見据えた。
「数日もせぬうちに現れよう。それまで……」
安心して待っておれ。
喉仏までせり上げたその台詞を口にして良いものかどうか躊躇い、曖昧に語尾を濁す。
「ですが……何日も音沙汰がないのでは心配にもなります」
「案ずるな。奴はきっと来る。……今はそれしか言えん」
軽く唇を引き結ぶ清本に反論する術を見失い、おゆきはただ眼を伏せるだけだ。
「きっと何か考えがあるのでござろう」
油揚げと小松菜の汁をすすりながら源之進が呟いた。「なれど……南部殿はあまりに生真面目で真っ直ぐなお人柄」
頑なに思い詰めるようなことがなければ良いが。
おゆきに聞こえぬように呟かれたその言葉を耳にすることができたのは清本だけだった。
杵間山は乾ききった葉と土の色に染まっていた。脆弱な枯葉がくるくると舞い、かさかさと囁き交わす。頭上を幾重にも覆う木々の枝葉は小春日和の陽光をも頑なに拒む。木立が落とす闇の底で、一馬は独り立ち尽くす。
澄んだ、だが無機質な風が吹きつける。すうと目を閉じれば体の中までギヤマンのように無機透明になっていくかのようだ。
いっそ本当にギヤマンのようになってしまえば良い。色も味もなく、ただ周囲の情景を透過するだけの存在になってしまえば良い。
かすかな気配を感じて目を開く。
ひらり、と目の前を枯葉が舞う。
鞘に置いた左手が、柄を掴みかけた右手が、ぴくりと動いた。あるいは単に痙攣しただけだったのかも知れない。
静寂。そして。
一馬の刀が閃くことはなく、枯葉は、音もなく地面に舞い降りた。
「――――――っ」
震える手の下で、半端に抜かれた刃がかちかちとわななき、鈍い光を放つ。
もどかしい。込み上げる熱いものを呑み下そうと喉仏を上下させても、余計に呼吸が苦しくなるだけだ。濃密な靄のような、このやり場のない感情をどうしてくれよう。
一馬は吼えた。緩慢に四肢を絡め取っていくようなそれを振り払いたくて、獣のごとき雄叫びを上げた。静寂が千々に乱れ、木々が震え、鳥たちがギャアギャアと騒ぎながら飛び立って行く。それでも一馬は吼えた。吼え猛り続けた。
「はっ!」
やがて――気合。一閃。
刹那の静寂ののち、ず、と音を立てて空間がずれたような気がした。
否、断ち落とされたのは空間ではない。一馬の前に聳え立っていた樫の若木が、幹を袈裟掛けに真っ二つにされて、地響きと土煙を上げながら倒れ込んだのだ。
若武者は動かない。荒い息を繰り返しながら、刀を振り下ろした姿勢のまま微動だにしない。
風がどうと暴れ、木々がざあ唸り、山がどうと轟いた。
ひらり……ひらり。
倒れる木が舞い上げた落葉は風と地響きに翻弄され、やがて地面へと舞い戻る。
一馬は動かなかった。
縋るように握り締められた刀だけがかすかに震えていた。その冷たい金属音は、まるで剣が悲鳴を上げているかのようであった。
それからの数日、用心棒の清本は何をするでもなく過ごした。日がな一日ひなたぼっこをしたり昼寝をしたり、時には源之進と一緒になって盆栽をいじったりすることもあった。恐ろしげな風貌と口数の少なさに初めは警戒心を抱いたおゆきだったが、見た目には似合わぬ人の好さと時折見せるぶっきらぼうな優しさにすぐに打ち解け、父と三人で他愛もない世間話に花を咲かせるようになった。
「平松殿。今度は庭に花でも植えてはどうだ?」
「華やかでようございますなあ。春になったら園芸の店にでも行ってみましょうぞ」
「水仙や『ぱんじい』などは冬にも咲くそうだが」
「ぱんじい……とは、変わった名の花にござるな」
「すみれの一種だそうだ。可憐な花でな……」
穏やかに乾いた日差しの中、縁側で茶をすすりながらのんびりと話し込む二人の姿におゆきは思わず笑みをこぼす。
のどかだ。本当にのどかだ。ささやかな幸せに満ちたこの日々がずっと続けば良いと思う。
――そして、そんな毎日の中に一馬が居てくれたなら。
(……わたくしったら、何を……)
思わず頭をよぎった本音を慌てて打ち消し、わずかに頬を染める。だが、花が綻ぶようなその微笑も長くは続かず、洗濯物をたたむ手がふと止まった。
一馬の消息は杳として知れない。先日などは思い切って一馬の『あぱーと』にまで訪ねて行ったのだが、留守だった。近所の住人の話ではもう何日も姿を見ていないという。
案ずるなと清本は言っていた。近いうちに必ず現れる、と。
何をしていても良い。どんな理由があっても構わない。とにかく一馬の無事な姿を見られれば良いと、おゆきはそれだけを念じている。
だから――もしかすると、乙女の切なる願いを天が聞き届けてくれたのかも知れない。
「御免」
不意に玄関から聞こえてきた声はまさしく一馬のもので。
縁側の二人に知らせることも忘れ、おゆきはたたみかけた手拭いを掴んだまままろぶように茶の間を飛び出していた。
「南部さ……」
だが、広がりかけた安堵の笑みが途中で凍りついた。
そこにいたのはやはり一馬だった。だが、一馬ではなかった。
しばらく見ぬうちにすっかり痩せたようだ。頬がこけて、元々端正だった顔立ちが鋭さを増している。容貌の変化だけではない。全身にぴりぴりと突き刺さるこの空気はどうしたことか。まるで薄い刃だった。研ぎすぎた、だが、薄氷のごとく脆い刃のようだった。
そして、目を射るように白いたすきと、きつく結わえられた鉢巻。
「元家老、平松源之進。源之進が娘、おゆき」
低く言葉を押し出す一馬の前でおゆきの頭は回転を止めていた。
何を。一馬はいったい何をしようとしているのか。
この格好はまるで……討ち入りに挑む侍ではないか。
洗いざらしの手拭いを握り締める手が震える。
(怖い)
嫌。とても嫌。どうかこのまま黙っていて、何も言わないで。
……聞きたく、ない。
そして数瞬の沈黙ののち。
「……我が主の命(めい)にて、その命、頂戴いたす」
半ば掠れた声で――だが、聞きたがえようのないほどはっきりと、一馬はそう言ったのだ。
握り締めた手拭いがはらりと落ち、頭の中でざあと音を立てて砂嵐が逆巻く。
(どうして)
だって、
<敵方の刺客も実体化しているようにござる。ここを嗅ぎつけねば良いが>
一馬は、いつも、いつだって、
<皮肉なものですな。『じったいか』してまでも『えいが』の筋書きから逃れられぬのでござろうか>
自分のことよりも、
<腕利きの先生が御身らの用心棒を引き受けて下さりましたぞ。これでひと安心というもの>
自分と父の身を案じてくれて……。
受け入れ難い事実に直面した時、人間の頭というのは無意識にそれを拒むものなのかも知れない。だからおゆきはただ呆然と立ち尽くしていた。そうするしかなかった。何も分からないし、考えたくなかった。
「平松殿はいずこか」
「そう焦るな、若造」
物音に気付いたのであろう。奥から清本が顔を出した。
前身頃に手を差し込んで壁にもたれる姿からは緊張感は読み取れない。だが彫りの深いまなこは険しい光を帯び、油断なく一馬を見据えている。そして一馬もまた唇を引き結び、顎を引いて真正面から清本を見つめた。
「俺はこの父娘の用心棒。平松殿とおゆき殿の命が欲しくば俺を倒すが良い」
一馬と清本の間で、おゆきは糸の切れた操り人形のように力なく座り込んだ。
「……心得てござる」
一馬が呻くように答えた時、ゆっくりと床を踏む足音とともに源之進が現れた。
「やはり南部殿であったか……」
きりりとたすきをかけて鉢巻を結わえた一馬と、蒼白な顔でへたり込む愛娘。両者の姿を見比べた源之進はさして驚いた様子もなく、一言そう呟いただけであった。
「清本殿、表に出られい。ここでは狭うござる」
「どこか広い場所に行かぬか? 遠慮なく剣をふるえる場所のほうがやりやすかろう」
「では、『きねま山』へ。ここからそう遠くない道程にござれば。山中なら往来も建物もありませぬ」
「先生、南部殿」
二人のやり取りに不意に源之進が口を挟んだ。「儂も共に。見届けとうござる」
清本は眉を寄せて難色を示し、一馬の唇がかすかに歪み、おゆきの顔が硬くこわばった。
だが、源之進は静かに清本に向き直る。
「先生、後生にござる。儂にも関わりのあること。立ち会わせてくだされ」
「平松殿――」
「良かろう」
「清本殿、何を!」
一馬が声を荒げる。清本は斜めにちらりと一馬を見やった。
「おまえさんの心底を知ってもらういい機会だ。それに、やきもきしながらこの家で帰りを待つよりはよほどましであろうよ」
「かたじけのうござる、先生。……そなたはいかがいたす」
源之進はへたり込んでいる娘に目をやって問うた。「父はそなたにも見届けてほしい。なれど、流血沙汰などおなごの目には良くなかろう。ここで待っていても良いのだぞ」
流血沙汰、と聞いておゆきの華奢な肩がびくりと震えた。
しかし――しばしの逡巡の後で、おゆきは蒼白な面を上げて口を開いた。
「……わたくしもともに。ひとりきりで怯えながら待つよりは、ともに参ります」
そして、かすかに声を震わせながらもきっぱりとそう言い切ったのだ。
「相変わらず気の強い……芯の強いお方にござるな。なれど」
拙者はそんなおゆき殿だからこそ――
口の中で呻くように呟き、一馬は言葉を切る。
一馬の独り言を耳にしたのは清本だけであったが、寡黙な用心棒は素知らぬ顔で玄関に降り、草履をつっかけた。
空はいつしか曇り、日は既に傾き始めていた。凍えるような低い空と鋭さを増して吹きつける風はまるで冬のごとく。
山道を登れば、草履の下で枯葉がざくざくと悲鳴を上げる。落葉の下の土の冷たさまでが黄昏の冷気と一緒に這い上がってくるかのようだ。深い木々に遮られた山には太陽の恩恵は届かない。だが、おゆきがぶるっと身を震わせたのは吹き溜まった寒さのせいばかりではあるまい。源之進が気遣うようにそっと娘の背中に手を添えた。
ある程度開けた場所に出ると、先を行く一馬が足を止めて振り返った。どうやらここを決闘の場と定めたらしい。清本も応じて足を止め、父娘は少し離れた場所に立った。
「おまえさん、ここで山ごもりでもしていたのか?」
周囲の木々が綺麗に切り落とされている。どれも切り口がまだ新しい。一馬は肯く代わりに腰の鞘に手をかけた。
拙者は鷹取さまが放った刺客。
なれど、惚れたおなごには生きて欲しいのだ。
使命は果たさねばならぬ。……だが、拙者が死ねば父娘は助かる。
――故に、拙者を斬ってくれ。
あの日、清本の元を訪れた一馬はそう言って頭を下げた。
「清本殿。こたびのお心遣い、かたじけのうござる」
「何のことだ。俺は用心棒の務めを果たしているまで」
「とぼけられるか。貴殿はそういう御仁なのでござるな」
すべて分かっているとでも言いたげに一馬はわずかに口許を緩めた。
平松父娘の元へ用心棒として赴くと言ったあの時。清本の心底は一馬に伝わり、それを受け入れた一馬の覚悟も清本はきちんと理解していた。
心根を伝えるために多くの言葉を弄する必要はない。侍とはそういう人種だ。
「とはいえただ斬られるつもりはありませぬ。真剣に剣を交えとうござる。……が、ひとつ約束してくれませぬか」
一馬の太刀がすらりと抜き放たれた。
美しい刀だ。そして脆い刃だ。一分の隙もなく研ぎ澄まされている。研ぎすぎるあまり、己の身まで削って生み出された切れ味だ。
「情けは無用。清本殿に斬り伏せられるは本望にござれば」
おゆきがはっと息を呑む気配が伝わった。
「手心など加えん。正面からぶつかってくる相手に対して無礼であろう」
しかし、と清本は軽く眼を眇める。「……迷いがある剣は己を殺すぞ」
低く押し出されたその言葉がやけに苦々しい色を帯びていたのは何故なのだろう。
一馬の手の中で、握り締めた剣先がかすかに震えた。
「おまえさんがそれを望むなら手出しも口出しもせぬ。だが、そうではなかろう?」
ゆらり――と清本の右腕が揺れた。
そして次の瞬間には、音もなく抜かれた打刀が握られている。
「迷いなど……とうに捨て申した」
一馬は殊更に胸を張ってすうと息を吸い込み、軽く眼を閉じた。
その刹那。
圧倒的な質量をもって生まれた『それ』が、一馬を、清本を、父娘を、等しく押し包む。
「むっ!」
咄嗟に腕をかざして顔を背ける清本。
だが、違和感もほんの一瞬だった。
身を切るような冬将軍と頬に当たる冷たいものに気付いて目を開いた時には、視界のすべてが夜と雪に埋もれていた。
「……成程。おまえさんの『ろけーしょんえりあ』か」
雪に覆われた橋の上に清本は立っていた。夜の闇に降りしきる雪、刻限は深更。町外れのこの橋を通る者もいない。雪と闇と静寂だけがそこにある。
そう、それは映画の中で一馬が平松父娘を暗殺した場面そのままの情景だった。
「何やら懐かしい」
遠くに望むは江戸の町並み。体の中でふとたぎるものに気付き、剣の柄を握る手に自ずと力が込もる。
(俺にもこんな心が残っていたのか)
舞台は違えどかつての故郷。己の原点ともいえる場所に立ち、胸が躍り、熱を帯びる。こんな若鷹のような感情が自分にもあったことを今になって思い出した。
(だが、悪くはない)
それにこの状況には覚えがある。
目の前には頑なで不器用で、愚直に信念を貫かんとする武士。かつての己とも、富樫総十郎とも重なる。
奇しくも、夜の闇に翻弄される雪は脆弱な蛍のようで。
「ふふ」
清本は思わず喉の奥で低く笑った。
体が疼く。血がふつふつとたぎるような、こんな熱い感覚など久しく忘れていた。
だが――悪くない。ひどく心地良いではないか。
「拙者の『ろけーしょんえりあ』に入った者は皆……拙者も含めて、特殊な能力を封じられてしまうようにござる」
即ち、と息を吸って一馬は刀を構えた。
真っ直ぐに伸びた背筋と正眼にぴたりと構えた姿勢はあの総十郎を彷彿とさせる。
「頼れるは己が腕のみ。――清本殿。真っ向勝負にござる」
清本は首肯に苦笑いを添えて返した。清本の特殊能力は『斬られること』。それを封じられたところで不利になる道理はない。
「南部昌親が末男、南部一馬。推して参る」
凛とした一馬の声は雪と一緒に闇を斬り裂くかのようで。
「俺はただの浪人。雇われの用心棒に名などないさ」
清本はあの時と同じように飄々と名乗りを上げ、あの時と同じように上段に構えた。
青ざめた顔でがたがたと震えるおゆきの肩を源之進が抱く。
「武家の娘ならば目を逸らすな。しかと見ておれ」
そして、二人の侍から目を逸らさず、雪の中で背筋を伸ばした。「武士にはどうあってもこうせねばならぬ時があるのだ」
「どうして……どうして、すすんで互いの命を危険に晒さねばならぬのですか」
「全く、不器用なものよの。かつての儂もそうであったわ」
「馬鹿です。南部さまも、先生も、父上も……みんなみんな、馬鹿にございます」
「おうさ。侍とは――漢とは、かくも愚かしい生き物よ」
源之進はからからと声を上げて笑った。「なれど、そんな南部殿だからこそ惹かれたのであろう?」
肯くことも否定することもできず、おゆきは顔を覆ってただ泣きじゃくるばかりだ。
「いざ尋常に――」
そう口にしたのは一馬か、清本か。
「――勝負」
雪の中、火ぶたが静かに切って落とされた。
ロケーションエリアの効果は四半刻。四半刻以内に勝負を決する。
先に動いたのは一馬だ。
「はっ!」
裂帛の気合。鋭い一閃が雪を斬り裂き、清本に迫る。力のある踏み込みから繰り出された刀を用心棒は真っ向から受け止める。烈しい火花が散り、薄ぼんやりした雪闇を刹那の間照らし出す。
「良い太刀筋だ」
皮肉でも嫌味でもなく、清本は素直な感想を述べた。全く揺れのない剣先と手首に伝わるこの痺れを味わうのはいつ以来であろう。
「だが――解せぬ。これほどの腕を持ちながら、なぜ鷹取などに与する」
ぎいん。
手首を返し、刃をひねる。跳ね上げられた一馬の刃はすぐに空中で静止し、再び清本目がけて振り下ろされる。
「おまえさん、鷹取のしていることを知らんわけではあるまい」
「それがどうした!」
火花が散り、一馬が吼える。清本は若い侍の熱気をいなすように軽く後退した。
尚も幾合か打ち合い、息ひとつ乱さずに向かい合う。凍えるような闇と雪の中、二人のもののふの体からは陽炎のように熱気が立ち上っているかのように見える。
「拙者は弱小旗本の末男。家を継ぐこともできぬ。そんな拙者を拾ってくださったのが鷹取さま。名もなき家の出の拙者に仕官の機会を与えてくださった」
「惚れた女とその父の首と引き換えにか?」
「主の恩に報いるは当然のこと!」
雪明かりに薄く照らされた闇を稲妻のごとき二条の閃光が奔る。悲鳴のような金属音、青い火花。がっちりと噛み合った刃はぎしぎしと軋み、互いに一歩も譲らない。
「びた銭作りに与することになってもか」
飄々と問う清本はまるであの時の総十郎のようだ。そしてあの時の清本と同じように、目の前の若武者も激しく瞳を揺らす。
「……主君の命令は絶対でござる。家臣たるもの、主君の信ずるもののために粉骨砕身するのみ」
こんな所まで同じではないか。
清本には一馬ほどの忠義心はなかっただろう。なれど主の命令だと声高に叫んで譲らぬ一点は変わらぬ。かつての己が、がむしゃらな武士の姿に重なる。
だから清本は問う。一馬に己を投影させているからこそ、あの時総十郎にぶつけられた問いをそのまま返す。
「命令とあらば大事な人間も殺すのか。命ぜられるままに殺すのか」
「黙れ!」
一馬が再び雄叫びを上げる。裏返って甲高く響いたその声は半ば悲鳴のようであった。
静かだ。あまりに静かだ。
離れて見守る父娘には激しい剣戟の音も届かない。
しんしんと降りしきる雪の中、二人の侍はまるで剣舞にでも興じているかのようだ。
胸が震えるほどに美しく、鮮烈で――張り詰めた光景であった。
まるで両端を強く引っ張られた糸のようで。ほんの少しでも触れればぷつんと音を立てて弾け飛んでしまいそうで。
震えながら、おゆきは神仏に祈るように手を合わせる。しかし眼を逸らすことは決してしない。瞬き一つせずに見届けんと、吹きつける雪の中でしゃんと背筋を伸ばす。
ちらり、ちらり。
雪が舞う。音も立てずに雪が舞う。
きらり、きらり。
雪の合間で、二本の刃が光を放つ。
互いの命を。矜持を、信念を。ふるう太刀にすべてを乗せて相手に打ち込む。
不器用な漢たちは剣しか知らぬ。答えを求めて己を削り、愚直にぶつけ合うことしかできぬのだ。
「呆れたものだ。なんと強情な奴よ」
どれほど打ち合っただろうか。一馬の肩が、白く吐き出される清本の息が、ほんの少し乱れ始める。
下段に剣を下ろし、清本は唇の端を吊り上げた。
「此処は銀幕市だぞ。おまえさんの主は此処にはおらん」
「姿が見えずとも恩義は消えぬ。拙者に目をかけてくださった恩を忘れることなどできぬ」
ああ――雪であるのか。
「主は侍のすべて。侍のいのちそのものにござる! それに悖るなど――」
一馬の頬を濡らすのは、体温で溶けた雪であるのか。
むずり、と清本の唇の端がやや苦しげに歪んだ。
「それがおまえさんの生き方ならば口出しはせぬ」
そして初めて声を荒げた。「だが、本当にそれで満足か。まことにそれが望みなのか!」
一馬の肩がびくりと震えた。
「来い、南部」
すうと息を吸い込んだ清本は腕を持ち上げ、珍しく真っ向から正眼の構えを取る。
「すべて断ち切ってやろうぞ。参れ!」
一馬の迷いを、救われなかったあの時の己を。
すべてを一刀の元に断ち切ってくれよう。
ああ、雪が降る、雪が降る。音も立てずに雪が降る。
唇を噛み締め、一馬は刀を握り締めるだけだ。
雪が降る。しんしんと、音も立てずに降り注ぐ。
雪に劣らず白い鉢巻が、たすきが、凍えるような風に翻弄されて頼りなくはためく。
きんとした静寂が流れ――そして、破れた。
「南部一馬、いざ!」
若き侍は何もかもをも振り切るように吼え猛る。「いざ――参る!」
そして大上段に振りかぶり、渾身の力で地を蹴った。
高い位置から振り下ろされる刀は脅威だが、胴ががら空きだ。使い手ならば間合いを詰めてその隙を突くこともできよう。
なれど清本はそれをせぬ。
真っ向から受け止めんと、ただ無言で一馬を見据える。
刹那の静寂。そして一閃。清本の目がカッと見開かれ、嫌な手ごたえが一馬の手首に伝わる。
「清本殿――」
浪人を呼ばわる一馬の声は悲鳴であったのか。
「馬鹿な……清本殿!」
大上段から振り下ろした一馬の剣は清本の刃を高々と弾き上げて、左肩にぶつりと食い込んでいた。
血走ったまなこがぎろりと一馬を一瞥する。
鬼のような形相を保ったまま真後ろにどうと倒れる姿は、まるで『えいが』を見ているかのよう。
じわじわと雪を染める朱を見下ろしながら、一馬はただ呆然と立ち尽くしていた。
「……何故」
声が震える。唇がわななく。
頬を濡らすのが雪なのか涙なのか、もはやそれすらも分からぬ。
「何故だ。何故にござる!」
愛しい女とその父を斬るしかない己を止めてほしいと一馬は願った。そして清本はそれを受け入れてくれたかに思えた。
しかし今。清本は一馬の刀を浴びて倒れた。
「人に頼るなと……甘えるなと仰せなのか?」
はらはらと。ちらちらと。
妙に温かい滴が、雪と一緒に一馬の頬から滴り落ちる。
「先生! 先生――」
甲高い悲鳴に振り返れば、動転して飛び出そうとするおゆきの姿。それを源之進が厳しい顔で押しとどめている。
二人を見つめ、一馬はきつく唇を噛んだ。歯が唇の皮を突き破り、一筋の血が顎を伝って、口の中いっぱいに鈍い鉄の味が広がっていく。
(されば己で決着をつけるのみ)
不忠の汚名に甘んじるくらいならば、いっそ自害して果ててくれよう。
(平松殿……おゆき殿)
雪の中で、悲しいまでに真っ直ぐな侍は静かに微笑む。
(一馬が最期、しかと見届けてくだされ。平松殿、できることなら介錯を)
ゆるりと持ち上げた剣先を、己が腹に突き立てんとしたその刹那。
「させん」
背後からもたらされた低い声は、紛れもなくあの男。
弾かれたように振り返った一馬の視界に映り込むのは――ゆらりと立ち上がった清本橋三。
「大した腕よ。咄嗟に急所は外したが……眩暈がしたぞ。思わず倒れてしもうたわ」
左の肩口からじわじわと滲み出す血液の色。全身を駆け巡る激痛に脂汗を浮かべ、清本は仁王立ちになって雪を踏みしめる。
「かつて俺も使命のために命を捨てた。『えいが』の筋書どおりにな」
滴る血が、肉が。手負いの用心棒の足許を緩慢に染め上げていく。
「俺を父のように慕ってくれた幼子がいた。だがある時、その娘を殺せと主に命じられた」
主の命は絶対。ナツを斬るしかない己を止めて欲しいと、半ば総十郎の剣を待つことしかできなかった。
「だが……俺とおまえさんとでは決定的な違いがある」
一馬の目が訝しげに眇められる。
「俺は『えいが』の中で果てるしかなかった。筋書きというくびきから離れることができなんだ。だがおまえさんは違う。結末を選び取れる、己の手でな」
だらりと下げた左腕はもはや使えぬ。それでも清本は隙を突いて走り込んだ。怪我人とは思えぬ俊敏さで一気に間合いを詰め、驚愕する一馬の首に右手一本で刀をふるった。
骨が軋む鈍い音。重い峰打ちを首筋に受け、一馬の眼の中で滅茶苦茶に色彩が飛び散る。そのまま呆然とした顔でがくりと膝を折ったのは痛みゆえだったのか。
見上げれば、右腕を高々と持ち上げた清本の姿。
がちゃりと返された刃が今、一馬の頭を目がけて振り下ろされる。
はらはらと。ひらひらと。
舞う雪に――黒い髪の毛が、ほどけて散った。
「ここは江戸ではない。その剣は、真に守るべきもののために振るえるのだぞ」
雪の上にほとりと落ちるは、一房の髷。
「見ろ。おまえさんはたった今、死んだ」
――侍にとって、髷を断ち落とされるは命を奪われるも同じこと。
弾かれたように顔を上げれば、清本がニィと笑ってこちらを見下ろしている。
「一遍死んだと思えば、もう何も恐れることはなかろう?」
きつく結んだ一馬の唇が歪み、顔に吹き付ける雪が溶けて、まるで涙のように流れた。
「南部さま!」
源之進を振り切ったおゆきが二人のもとへ駆けつける。髷を切られた一馬ははっと顔をこわばらせて背を向けた。
「近寄りなさるな!」
一馬に差し伸べようとしたおゆきの手がびくりと震えた。
「……すべてお聞きの通りにござる。拙者は、おゆき殿と平松殿を――」
「南部さま。もうやめてくださりませ」
おゆきはぽろぽろと涙を落としながらそっと一馬の背に手と頬を押し当てた。一馬の体が電流に貫かれでもしたかのようにびくりと痙攣する。
「もう良いではありませんか。南部さまは今より生まれ変わったのです。もう……鷹取さまの刺客ではありません」
白く華奢な手の中で、広い背中が小刻みに震えた。
一馬は慟哭した。雪の中で、恥も外聞もかなぐり捨てて、ありったけの声を上げて男泣きした。
「先生。傷を」
清本は痛みに耐えきれずにとうとう雪の中に膝をついた。駆けつけた源之進が自分の袖を裂いて素早く傷口を縛る。
「いやはや、肝を冷やしましたぞ」
と息をつく源之進の額には雪の中だというのにうっすらと汗が浮かんでいた。「こう申しては何ですが……見事な斬られっぷりにござった。てっきり本当にやられてしまったのかと」
「なに、ついいつもの癖でな」
「とは?」
「斬られるのが俺の役回りよ」
実体化したばかりの源之進らは知るまいが、『斬られの清本』といえば銀幕市ではそれなりに有名な存在である。
だが、斬られ役たる清本の『能力』は一馬のロケーションエリアによって封じられていたはずだ。
(これからはその腕を本当に大切な者のためにふるえ)
泣きじゃくる一馬を見つめる清本の唇に穏やかな笑みが滲んだ。
一馬はかつての清本には選び取れなかった道を掴んだ。映画の筋書きと訣別することもできるのだと一馬が証明してくれた。
ほんの少し――あの時の己までもが解き放たれ、救われたような気がする。そんなふうに考えるのはこじつけなのだろうか。
ふと、身を切るようだった寒さが少し緩んだように感じられて顔を上げる。
雪に埋もれた橋も江戸の町並みも嘘のように消え失せて、周囲は枯葉色の景色を取り戻していた。
「ほう。ずいぶんと気の早い」
ロケーションエリアの効果が切れてなお落ちてくる雪に清本は頬を緩めた。大気はここ数日で急激に冷え込んだ。ましてやここは山の中。標高が高い場所ならばそろそろ雪が降ってもおかしくない時期である。
(見ろ、南部。雪もおまえさんを祝福しているようではないか)
せっかちな雪が次々と舞い降り、四人をそっと撫でて、あたたかく溶けていく。
雪の精が頬に落とす控え目な口づけがくすぐったくて、清本は白い息を吐きながら微笑した。
ああ、降る雪よ。
おまえさんに心があるなら、このまま優しく、すべてを白に雪(そそ)いでくれぬか。
どうか明日からは、真白な心で新たな日々を始められるように。
(了)
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クリエイターコメント | 大変お待たせいたしました。三度目のご指名ありがとうございます、宮本ぽちでございます。 捏造も字数も(前作に比べれば)格段に少なめでお届けいたします。
『蛍と白刃』の内容を受けての物語とのことで、大変嬉しく、恐縮でございます。 前回は花火の下、蛍舞う河原での激しい斬り合いでしたが、今回はどちらかといえば静かな、雪舞う江戸の町を背景に剣を交えていただきました。 相変わらずアクションは苦手ですが、少しでも時代劇の雰囲気を演出できるよう力を尽くしました。
べるぎいのちよこれいとは人類の至宝です。 センセイはおゆきさんに向かって「次は栗羊羹と『もんぶらん』を拵えてくれ」と真顔で要求したんじゃないかと思います。 |
公開日時 | 2008-11-03(月) 18:00 |
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